日本文学を専攻する海外の学生が必ずする質問があるそうです。
「どうして日本語の小説は昔のことと今のことがごっちゃになっているの?」
これは一言でいえば日本語の「時制」の扱いに対する疑問です。
世に名文と謳われる日本語の文章には、
必ずと言っていいほど「過去の出来事(〜だった)」と
「現在の出来事(〜である)」が混在しているのです。
ためしに夏目漱石の『我輩は猫である』の冒頭を
すこしだけ読んでみましょう。
「この書生の掌の裏(うち)でしばらくはよい心持に坐っておったが、
しばらくすると非常な速力で運転し始めた。
書生が動くのか自分だけが動くのか分らないが無暗(むやみ)に眼が廻る。
胸が悪くなる。到底(とうてい)助からないと思っていると、
どさりと音がして眼から火が出た。」
お分かりになりますでしょうか。
主人公である猫は、過去のことについて話しているのに、
途中から「眼がまわる」「胸が悪くなる」などなど、
まるで今感じていることを話すかのように、
現在形をつかって物語を進めています。
これは日本文学の特徴で、諸説あるものの、
日本語は過去形が「た」という単一の子音で終わるため、響きが単調になり、
心地よいリズムを生みにくいことから生まれた慣習だというのが
一般的な解釈のようです。
現在形の「る」をところどころにちりばめることによって、
日本語は文章のリズムを豊かにし、加えて、
過去のことが目の前で起こっているかのような緊迫感を獲得しているのです。
……さあ、身近なエッセイや、読み物調の記事を手にとって見てください。
思わず読まされる「記事」はきっと、
タイムマシンのように過去と現在を自由に行き来しているはずですよ。














